久しぶりに泣きながら目覚めた
夕方寝て今(22:30)起きた
やっぱり夢を見た
嫌な夢ではない
久しぶりに実家に帰った設定で
喉が渇いて、ペットボトルの綾鷹を飲んだ
でもイマイチ喉の渇きが取れない
室内飼いしてるエル(実家にいるダックス)に挨拶するため、リビングの方から家に入った
エルを抱っこしたら涙が噴き出した
その部屋に両親がいたけど、泣きだした事については何も言われなかった
そこで目が覚めた
つらつらと涙が流れてくる
それと同時に強烈な喉の渇きを感じた
家にある水を飲まず、わざわざコンビニまで綾鷹を買いに行った
とてもまぶしく、夜の外の灯りだけでも目が満足に開けられない
夢見心地
コンビニで綾鷹を買った
生まれて初めて綾鷹をお酒みたいに感服しながら飲んだ
外の風が気持ち良い
「一人暮らし 感受性」
「夢 潜在意識」
「潜在意識 対話」
などのワードで検索される方におすすめです。
泣きながら目を覚ますということ
泣きながら目を覚ます話を実際に誰かにすると、「その経験は無い」と言う人は結構多い。
でも僕は少なくとも、「君の名は。」を創った「新海誠」さんはこの経験があると確信してる。
君の名は。は「入れ替わり」を題材にしているが、物語のプロットは「時々目を覚ました後に理由が分からない涙が流れる時がある」というものだった。
僕は新海誠さんが、「寝起きの切なさ」から「入れ替わり」だったりを後付けで思いついた気がしてならない。(正直掘り下げてないので本意は分からない。)
そんなわけで僕は「泣きながら目を覚ます」という経験を割と良くするタイプだ。
睡眠中というのは、きっと起きている間よりも潜在意識が投影されている。
というより、潜在意識しか活動してないと思う。
起きている間は「顕在意識(けんざいいしき)」という「自分が律してる意識」のおかげで感情にブレーキがかかり、理性的で良心溢れた行動を取ることが出来るが、夢に顕在意識はほぼ投影されて無い。
夢の中では、自分の本心中の本心である潜在意識だけを見ることができる。
だから僕は、夢の中でこそ「自分との対話」が本当の意味でできると思っている。
僕は極端に「死」を恐れている
目が覚めている時、僕はそんなに死を恐れていない。
でも「死ぬ夢」を見ると、本気の恐怖を感じる。
きっと現実では、僕の想像力が足りずに本気で「死ぬ場面」が想像できないだけで、潜在意識の中でリアルに死に直面すると、「本当は恐れている」とハッキリ分かるんだと思う。
でも僕が一番恐れているのは「自分の死」じゃない。
実家にいる犬や家族の死だ。
幸い実家の犬が死ぬ夢はまだ見たことが無いが、「弱り切っている」という夢を良く見る。
これは完全に「前回飼ってた犬が死ぬ直前に弱り切っていた」というトラウマから来るものだろう。
今実家で買ってるダックスフントは、既に前の犬の倍以上生きている。
きっとその辺りの恐怖心もあって夢に頻繁に出てくるんだ。
一人暮らしを始めてから感受性が鋭くなった
最近「28日後」を鑑賞し直したが、「ジムが両親と過ごした思い出のビデオテープを再生するシーン」が実家暮らしの頃よりグッと来た。
何故ここまで傑作なのか?「28日後」感想と考察【監督コメンタリーあり】 | ぱっかんシネマ
映画を観て涙を流すのは僕にとって趣味の一つだが、これも一人暮らしを始めてからより一層好きになった。
まず涙が恐ろしく出やすくなった。
これの一番大きな要因は「一人になった解放感」だと思う。
人によるかもしれないが、「感情の爆発」は誰かといる時より一人の方が起きやすい。
だから僕は一人で映画を観るのが好きだし、一人で鑑賞しながら思いっきり泣く。
そしてその一連の行為に癒しを感じる。
だから好きだ。
反対に「笑い」に関しても増幅した。
これは一部弁明的な意味も含まれるが、何も僕は悲しくて泣きまくってるわけじゃない。
笑う時はちゃんと笑ってるし、というか僕は(当ブログで何度も言っているが)福岡でTOP3に入るくらい良く笑う。
一日に2リットルは笑ってる。
※僕の中で笑いの単位はℓである
言ってしまえば、笑ったり泣いたり、「感情の起伏が激しくなった」のかもしれない。
でもそれは社会的には不都合な点が多く、一種の「幼児退行」とかのような気もする。
確かに一人暮らしを始めてから精神年齢がグッと下がった気がするが、それはたぶん「実家にいる頃はむしろ大人ぶっていただけ」であり、一人で生活して初めていろんな状況に遭遇したから、現実的な自分の精神に気付いたんだと結論付けている。
小説などでたまにある「他の皆より頭一つ抜けて自分が大人だと思っていたけれど、本当は皆の方が大人だったんだ」というような展開に近い。
また、親元を離れたことでそのありがたみが分かった。
ここで言う「ありがたみ」とは、「家事をしてくれる」とかそういうものではない。
確かに実家にいた頃はロクに家事なんかしてなかったが、どうやら僕は洗濯・掃除が大好きで、なにより「自分のことを全て一人でこなしている」という事実にエネルギーが沸く。
自分で料理はめったにしないが、元々(申し訳ないが)母親の料理は口に合わず、今の外食メインの食生活には日々ウットリしている。
僕の中では、「家族が生きている」という事実がありがたいのだ。
先ほど書いた通り僕は一人暮らしを心の底から謳歌している。
これは「寂しさを紛らわせている為に自分に言い聞かせている」のかもしれないとも考え、自分なりに考察したりもしたけれど、どうやら僕は一人暮らしを心の底から楽しんでいる。
だから矛盾が生じる。
夢の中で実家を体験すると、目が覚めると帰省したくて堪らなくなる。
でも時間が経つと、
・コンビニが無い
・ゲームも何も無い
・またあのひたすら退屈な時間が来る
という理由で帰るのがおっくうになる。
僕は定期的に帰省しているし、「出発前」も「帰省中」も一人暮らしの部屋に帰りたくて仕方が無いが、夢という場で潜在意識と対話した直後のみ、僕は実家に帰省したい。
感情に伴う行動をするならスピードが命
感情というのは恐ろしく冷めやすい。
誰かに親切にしてもらい鬼のような感謝を感じても、時間が経つと恩返しについてどうでも良くなったりする。
人との別れに関しても、当時はとても悲しくなり「〇年後また飲みにいこう」とか自分から言っちゃったりするけれど、数日も経てばどうでも良くなる。
悪い言い方をすれば、あんなに感傷的になった自分自身に恥じらいを覚えたりする。
そして別れた友人とは結局二度と会わなかったりする。
この件に関しては、もしかすると「また時間が経てばすぐ冷めて、その結果二度と会わなくなる」というのが心の奥底では分かってるから、「結局もう会わないんだろうな」というのが脳裏を過りそれで瞬間的に悲しくなるのかもしれない。
「感情に正直」「理性的」どっちが良いんだろうか。
大人ならむしろ「感情」は殺すべきという風潮もある。
いつまで経っても感情メインの行動を取っていたら、そりゃもう子供のようにヒステリックな言動を取り続けるんだろう。
それはまるで「今まで普通に優しかったお客さんが、良く分からないポイントで急にキレ出す」みたいなのに似ている。
そういう不安定な人はとても怖い。
幸い僕は「そういう人にはなりたくない」という気持ちがあり理性が勝っているので、このブログで書いている程敏感な生き方はしていないようだ。
ただしかし、顕在意識では常に「めんどくさい」という考えがあり、そのせいで潜在意識の訴えをかき消し、せっかくのエネルギーを無為にしてる気がしないでも無いので、やっぱりちゃんとエルには会いに行こうと思う。
一人暮らしを始めると感受性が鋭くなる:まとめ
「感受性」は「豊かになる」のような言い方をすれど、「鋭くなる」という表現はあまり見かけない。
しかし今回は、「過敏になると不都合も生じる」ということを伝えたかったため、「豊かになる」という”まるでメリットしか見てない”ような表現を控えたかった。
だからタイトルに「鋭くなる」という表現を使った。
色々書いたが、僕は現実ではこんなブログみたいにドラマティックに物事を捉えながら生きていない。
生活しながら時折「内省」をするので、その際に自分のことを見つめやすくするために表現を誇張してまとめている。
そしてそれが結果的に当ブログの執筆にも繋がっている。
これは余談だが、僕は内省活動が好きだ。
内省についてはこちらの記事で詳しくまとめている。
内省という資質について「遺伝」であることは分かり切っているし、おそらく母親から受け継いでいると思う。
内省をしてると言っても、何も哲人のように一日に何度もメモに書きなぐっているわけでは無い。
時折エバーノートに、
・今感じていること
・アイディア
・閃き
・着想(当ブログの「着想」にリンク)
・夢の出来事
・エネルギーを感じること
・歌詞
などを思いつく度にまとめ、後で恥ずかしくなって消したり消さなかったりしている。
それに加え寝る前には手日記も書いている。
(これに関しては、“仕事でもPCしか使わないし、日常的に手書きが減り過ぎてただでさえ弱々しい字がより一層字が汚くなるのを防ぐため”でもある)
日頃の内省と手日記、どちらにも共通して言えることは「マイナスなことは書かない」ということだ。
僕は元々ネガティブなので、嫌なことはわざわざ書かなくても深く心に残る。
もしネガティブを内省するにしても、「客観的に観れば前向きになれることもある」という事実に辿り着ける場合のみだ。
もちろんどの体験にもマイナス・プラスの側面があるので、何かしらのイベントが起こる度に結局内省はしている。
こんな事をしているからきっと、僕の観る夢はより一層ドラマティックになっているのかもしれない。
良い意味でも、悪い意味でも。
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