みんな大好きサンタクロース。
世間では「サンタの正体が親だっていつ気付いた?」みたいな質問が蔓延してますが、それについてふと疑問を感じたので記事を書きます。
幼少期の僕のサンタ事情
「サンタの存在」を信じるとか信じないとか、そういう考えを今まで持ったことがありません。
「サンタ」は誰かが準備したもので、それを知ったうえで楽しむものだと幼き頃から思ってました。
例えばウチの親は、誕生日プレゼントやクリスマスプレゼントは全てお金でした。
現金というのは一般家庭ではさすがにアウェイだと思いますが、両親の哲学である「確実に欲しい物をプレゼントしたいから、間違って買わないようにお金を渡すね」というスタイルには感極まります。
もしかしたら「あまりにも不要な物をプレゼントされて息子(僕)が酷く落ち込んだ」みたいなエピソードがあったのかもしれませんが、少なくとも僕の記憶にはありません。
そんなわけで、誕生日やクリスマスに「プレゼント」に関するやり取りはあれど、それに「ファンタジー(サンタ等)」という要素が含まれている事には気付きもしませんでした。
だから、「お宅の子はまだサンタを信じてる?」系の質問に違和感を感じます。
子供は「ファンタジー」を信じているのか?

当ブログでも何度か紹介していますが、キングコング西野亮廣さんの「革命のファンファーレ」という本にて、「子供って思ってる程アホじゃない」という一文が登場します。
西野さんは、「思い返せば、幼少期から親の顔色を伺いながら行動していた。これは自分だけかもしれないけど、大人が思っている程子供はアホじゃないかもしれない。」と言っています。
例えば男の子なら「仮面ライダー」や「ウルトラマン」が好きです。
ヒーローというのはいつの時代も子供を勇気づけます。
僕のヒーロー像は「ロックマン」でした。
そしてその「ロックマン」は、誰かが作りだしたキャラクターであることももちろん知っていました。
それどころか「CAPCOM」のロゴを見て「ロックマンを作ったとこだ!」とテンションが上がっていました。(4歳)
そんな僕に対してもし父親が「ロックマンは実在しないんだよ」と言っても、「お、おう」と返していたことでしょう。
また、僕はポケモンも好きでした。
でもポケモンが実在しない事は当然知っています。
それどころか母親が「今日のさんま御殿でピカチュウの声優が出るよ」と教えてくれて、それで大谷育江さんの存在を知りました。
もし僕がこれらのファンタジーに夢を抱いていたなら、「声優なんていない!」と全否定し、「声優」というワードを聞いただけでショックを受けていたことでしょう。
もちろん「サンタクロース」は宗教も絡むのでその辺の創作物よりも更に信ぴょう性が高くなりますが、ある意味では一種のヒーローなので似ている部分はあると思います。
「ファンタジー」を信じる子供はいない

「サンタ」は誰が観ても商品化されている
僕は幼少期から「サンタクロース」=「着ぐるみ」という認識でした。
「着ぐるみ」というのは例えですが、「誰かが準備したもの」という認識はだいぶ幼き頃からありました。
それは「なまはげ」とかと一緒です。
「中に大人がいる」というのは誰だって分かります。
子供たちはその上で怖がってます。
僕は福岡県大牟田市に近い場所で育ちました。
大牟田と言えば「大蛇山」があります。
小っちゃい時、父親に連れられ大蛇を見に行きました。
そして厄除けかなんかの目的で、父親に無理やり大蛇の口に入れられました。
その大蛇はいわゆる「神輿」の形状で、先ほどまでワッショイされながら口から火花が出ていました。
そんなものの中に入れられるのですから、とても恐怖で、抱きかかえられている父親の体を蹴って、そして大泣きして恐怖心を必死に伝えていました。
「なまはげ」「大蛇」共に幼少期からとても怖かった。
そして幼少期の僕は、「サンタ」含め「なまはげ」も「大蛇」も、「人が用意したもの」と知りながら楽しんで(怖がって)いました。
それらは大人になった僕らが「作りものだと分かっていてもお化け屋敷が怖い」と感じるのと同じではないでしょうか。
白髭をつけ、赤い服を着たおっさんを見て、「おー。あれがサンタか。」とガチで感動する子供は、本当に実在するのでしょうか。
なぜ大人は子供にサンタを信じさせようとするのか

大人が好きなサンタ
なぜ大変な根回しをしてまで、大人は子供にサンタを信じこませなきゃいけないのでしょうか。
もちろん親なら「子供の笑顔が見れるならそれでいい」という考えがあるかもしれませんが、それなら別に「パパからの贈り物」でも問題ないはず。
でもあえて「サンタの所業」に仕立てあげます。
ありがたい事に、「サンタ 信じさせる」辺りのワードでググったらママさんブロガーの記事がいくつかヒットしました。
答えは「子供を良い子にさせる為(しつけ)」でした。
「サンタは信じる子にしかやってこないよ」とか
「良い子にしとかないとサンタは来ないよ」とか、コントロールをする為にサンタは使われるようです。
確かにこれ、僕も言われてました。
ですが前原家の場合は「クリスマスプレゼントは親が現金を渡す」と明示されていたので、遠回しに「今年は金額が減るよ」と脅されてるも同然。
「サンタ」が皮肉として使われてるという不思議な例です。
また僕と似た考えのブログがあり、その中では「サンタを信じ込ませる理由は“子供の純粋さを楽しみたいという親のエゴ”ではないか」と書かれていました。
子供がいれば当然知っていたかもしれませんが、「自分が楽しむ為に子供にサンタを信じ込ませる」という文章だけを見ると、一種のヒール役に徹してるようにも見えます。
そもそも「信じる」とはどこまでの事を指すのか?
捉え方を変えれば、僕は今でもサンタクロースの存在を信じています。
北欧ではちゃんとサンタクロースの文化があるようで、それは日本で言う「神社の神主」とかそういう位置づけだと思います。
「神主」は日本の土地土地に居ます。
サンタクロースも北欧のそこかしこに存在するはずです。
でも我々が肉付けした
・空中を飛ぶ
・無限に湧くプレゼント
などのファンタジー要素はそこには無いでしょう。
サンタクロースの存在は「海外には本当にサンタの文化があるよ」という現実度でも全然美しいと思います。
なのにわざわざ、きっついファンタジー要素を足す必要はあるのでしょうか。
まとめ:「お宅の子供はまだサンタ信じてる?」のやり取りがどこまでガチなのか、未婚の僕に教えて欲しい
「子供の幻想に付き合ってあげる」というのは親として素晴らしいと思います。
だから「お父さんありがとう!」と言われたいのを必死に堪えてまでサンタの仕業に仕立てあげるのでしょう。
でもだからと言って、子供は本当にサンタを信じているのでしょうか。
子供なりの建前的リアクションが含まれているのではないでしょうか。
どこかのタイミングで「たかし・・・大事な話があるんだ・・・。実は、サンタはいないんだ・・・。全部パパだったんだ。」という告白をするのかと思うと、それはそれでシュールで面白い気がしますが、僕が「サンタ」について「いるいない」の次元で考えたことが無かったので、ふと疑問に思い記事にしました。
また、その告白のタイミングがもつれ込んで「中二」とかまでサンタを信じていたら、彼らはどう責任を取るつもりなんでしょうか。
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