本当に単純な発見だが、「知識量」に比例して世界は楽しくなるんだと気付いた。
その事を内省しつつまとめてみる。
知識を付けることで世界が広がる
付け焼刃のような知識だが、僕には音楽の知識がある。
その知識量はプロのそれに比べたら足元にも及ばないが、少なくとも、「2ミックス」や「マスタリング」が鬼難しいという事は理解した。
レコーディングした音楽を販売できる品質まで押し上げる為には、「2ミックス」という作業が必要だ。
ベース、ドラム、ギター、ボーカル。
バンド物なら基本的にこの辺りのパートがあり、それぞれのパートを際立たせて聴こえるようにする必要がある。
その作業が2ミックス(ミックスダウン)だ。
そしてこの時点で凄く難しい。
僕も独学で未だに勉強しているが、正直良く分かってない。
でも、「難しい」という事実に気付けたおかげで、世の音楽の美しさを知れた。
だから僕は以前より音楽が好きになった。
高いスピーカーで重低音ガンガン鳴らして聴いてた音楽も、モニタリングヘッドフォン(レコーディングとかで使うやつ)で聴く方が楽しい。
というかこれが僕の趣味である。
生のライブ演奏より、エンジニアが苦労して完成させたCD音源に心奪われる。
パートごとの音がキレイに聞こえ、それでいて音圧もガッツリある。
そういう「プロのキレイな音」、
もしくは、「汚いけど心地良いインディーズな音」が大好きだ。
僕が音楽で涙を流す時は、こういう完成しきった音源だ。
美術とかの分野なんか特に「知識量」に比例して感動できる
僕は美術品に対して興味は無い。
以前は、「あーいうのに感動できる人は生まれつきなんだろうな。」と勝手に思っていた。
興味を持つ持たないは生まれつきかもしれないが、美術品のバックボーンや手法など、「知識」を覚えることで、その作品に深みを感じ、より感動できるようになる。
「知能」を持つことで「感動」できる
2015年に放送された、山P版「アルジャーノンに花束を」で、確か「知能が優れることは美しい」というセリフがあった。
主人公で知的障害を持つ「白鳥咲人(しらとりさくと)」に手術を施し、彼を一時的な天才にした「蜂須賀大吾先生」が言っていたと思う。
”
知能が高くなることは美しい。
美しいものを見て、感動を覚えることができるから。
”
本当はもっと深く難解な言葉回しだったが、こんな感じのセリフだった。
僕はこのセリフが好きだ。
僕は比較的しょうも無いものにも感動できるタチだが、その裏に「大量の知識」が隠れていると認識できるからだ。
僕が「近所の散歩が好きな理由」にも通ずる
「遠出よりも「近所の散歩」の方がめっちゃ楽しい」でも書いたのだが、旅先の散歩よりも、何百回も通っている近所の散歩の方が僕は好きだ。
それは、僕が何千回と通ったことにより、その辺りの情報を知っているからだ。
偉そうな言い方をすると、凡人なら飽きる行為だろう。
でも僕は、散歩を繰り返す度に散歩が好きになる。
この辺一体の看板の内容やデザイン。
どんな人がいて、どんなドラマがあるか。
そして「この街に自分が住んでいる」という事実。
僕はこの街のことを知り尽くしている。
言わば、「故郷が好きな理由」と同じことかもしれない。
誰だって「自分が詳しいこと」については嫌いになれない。
まとめ
本エントリーも、後で読み返すと「当たり前じゃん」と思える内容になってしまった。
でもその当たり前を見つめ直すのも悪くない。
「知識を付けると世界が明るくなる」という事実をどうにかして子供の頃に知り、そして勉強に活かしたかった。
子供の頃の勉強はただただやらされてるだけだったが、大人になってからの勉強は、自発的にやってる分そこそこ楽しい。