僕は音楽制作をやっていて、公開してる音源動画に悪評を頂くことがある。
悪評率はそんなに高くなくとも「新着コメントあり」のアラートを見るだけで
「悪評だろうな・・・。見るの怖いな・・・。」と怖気づいてしまう事もあった。
最初は凄く凹んだが、考え方を変えたら凄く楽になった。
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悪評が付くということ
「ゴミ。全然良くない」
「ウザったいので削除をお願いします」
「全然分かってないのに書くなよ。」
この手の言葉。
深く刺さる。
僕は音楽とブログをweb上で公開しており、これらについて嬉しいお言葉や、きついお叱りの言葉をもらうことがある。
音楽を公開してるYoutubeも、記事を書いてるこのブログも、どちらもコメント欄がある為、一般の方の気持ちをダイレクトに聞くことができる。
嬉しいお言葉ももちろんあるが、たまに来るきつい言葉に精神を塞ぎこみたくなるため、もうコメント欄ごと廃止しようとも考えた。
でもそのせいで喜びの声を聴けなくなるのはかなり勿体ない。
だから今もこうしてコメント欄は活かしている。
何か行動を起こすと「低評価」が来るのは当然
誰もが知ってる「ワンピース」。
当然のことだが、ワンピースのマンガを読んでる人は、読んでない人よりも圧倒的に少ない。
マイナーなモノから有名なモノまで、大抵の創作物に対して「好きでも嫌いでもない」という人が大半だ。
「本当に大多数に支持されるもの」というのは中々無い。
だから自分が創ったものに対して、「好き」または「嫌い」と言った反応を示してくれる人はきっと相当少ない。
そしてその両者の中のごく少数がコメントを残してくれると考えている。
よって何かしら創作活動を続けるに辺り、「高評価」または「低評価」のいずれかを食らうことは当然であると言える。
そもそも「評価されてる」という事実が嬉しい
低評価にせよ高評価にせよ、自分が公開してる物に対して「評価」がくだされてる事に僕は喜べるようになった。
Youtubeで音源を公開し出して、最初の方はそもそも閲覧者がいなかった。
ポツポツと再生数は増えてきたが、本当、スズメの涙程度。
正直言ってこの状況は今も変わってない。
評価がくだされる以前にまず「動画を見てくれる人自体が貴重」なのだ。
そして微量ながらに再生数が増え、いよいよ「評価」が付いた。
低評価。
もちろん凹んだ。
でも、今までの「一応再生してくれたけど、何のアクションもしてくれなかった人」ではなく、今度は自分の創作物に対して「コメント」という形で行動を起こしてくれた。
負の感情とは言え、自分の創作物に対してエネルギーを注いでくれたのだ。
そう考えると、僕は凄く嬉しくなる。
喜びまではしないが、「そもそも誰にも評価されなかった頃」と比べると、やっぱり人目に付いたという事での嬉しさはある。
「自分の為に作ってる」のだから、評価が低くても問題無い
当ブログの場合、「SEO」という形でGoogleから評価されており、結果としてたくさんのユーザーから閲覧されているので自信に繋がっている。
これは僕にとって大きなアイデンティティーで、どんな不評コメントが来ようと怖気づかない理由の一つだ。
では音楽の場合は?
僕は音楽を「100%自分の為」に作っている。
自分でヘッドフォンで聴いて、ウットリする為のものだ。
先人からの言い伝えである「音楽というのは自慰行為みたいなもん。本人だけが気持ち良くなってる」を体現してる。
でももちろん、誰かに聴かせて、その誰かが喜んでくれたら凄く嬉しい。
だから僕は音源を公開しているが、仮に低評価が付いても「これはあなたの為の曲じゃなかっただけ」と考えることで凹まずに済む。
まとめ:創作物は基本自分の為に作っている
未だに低評価の度に一旦ガクッと気分が落ち込むが、3分もあれば落ち着きを取り戻す。
低評価というのは「行動を起こす者の常」だ。
致し方ない。
メガヒットしたiPhoneだって、最初は低評価の嵐だった。
新しい奇抜なビジネスを始めようとする若者にも、最初は風当たりが強い。
低評価というのは常に付きまとう。
でも、低評価が付けば付く程、自分の創作物が知られ出しているということだ。
めげずにこのまま頑張ろう。
というわけでYoutube音源を宣伝してから寝る。
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