最近本当に写真を良く撮るようになった。
それも日常で、特に変哲も無いこと。
(昔は全く撮らないどころか写真そのものが嫌いだったのに。)
というわけで、「写真を撮るようになった理由」を書く。
昔は写真が嫌いだった
20代前半までは「今体感している事が全て」という感覚だった。
だから面倒な写真撮影なんてせず、どこへ行っても、または日常的な体験の最中でも、幸せな気分になればなるほど、今その瞬間を噛みしめることにこだわった。
だけど30歳になり、色々と環境も変わって、「ちゃんと写真に残すこと」を心がけるようになった。
写真を残す理由は、変化を忘れたくないから
30年も生きると、あらゆるものが変化する。
25歳までは、生きている「今」が割と「子供の頃の延長線上」のような感じだった。
例えば、自分や家族の体調、ペットのこと、実家の周辺環境など、子供時代から比較しても、まださほど変化はない。
多少「子どもの頃はここにショボい電気屋さんがあって~」のような変化はあれど、まだそれは「今」と比較できる範囲。
でも30代ともなると、
子供の頃の変化のみならず、追加で更に変化が加わる。
・15年前に久しぶりに訪れたら更地になってた。
・昨日久しぶりに訪れたら家が建ってた。
ここまで変化が加わると、「電気屋さんってどんな感じで存在してたんだっけ」と、自分の中で
そしてこの記憶も、幼少期を共に過ごした両親や兄弟ならばまだ「そういえばコガデンキって電気屋があったね」と共感してもらえるかもしれないが、
いよいよその知識を知り得る人物が自分ひとりになったら、切ない。
自分の中でも「本当にそんな店存在したんだっけ」と、いつか、記憶がかすれそうな気もする。
でも写真があればそれは避けられる。
たった一枚、情報として写真が残っていれば、思い出せないディティールの情報を思い出せる。
再確認できる。
周りのものは基本「消えていく」
自分より寿命が短いペット、もしくは親世代の親族。
30代を境に、本当に減っていく。
失われていく。
20代前半までは意識できなかった事。
いや、しなくて良かったこと。
それが最近になり少しリアルに感じられた。
幼少期を支えてくれたコミュニティが縮小していく感覚。
たまにしか実家に帰らないのに、地元が寂れていくのはやっぱり寂しい。
自分勝手で傲慢な感情だが、「消えていく」ものに関しては受け入れるのに時間がかかる。
だから私は写真を撮る
・変化する前の事を忘れたくない
・消えていくものを忘れたくない
・いつか自分の周りの人たちがほとんど消えて、いよいよ“それ”、例えば「昔はここに石碑があった」のようなどうでもいい事実を知ってるのが「自分の脳内だけ」となると寂しい。少なくとも写真があれば「脳内だけ」という事実は回避できる。
これらの理由で、情報としての写真を残すようになった。
昨年亡くなった、17年生きたダックスフントの写真もある。でももっと昔から撮っていればなーっとも思ってる。
それと、ご高齢の方が昔話を良くする理由も分かってきた。
「自分の脳内にしか無いこと、それが忘れ去られるのが寂しい」
っていう感情が根底にあるんだろうな。
だから子どもの皆さん、
おじいちゃん・おばあちゃんが退屈な歴史の話を始めたら、ゆっくり聞いてあげてください。
あなたが大人になった時、ふと思い出して懐かしむはずです。